@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00010054, author = {笹部, 昌利 and SASABE, Masatoshi}, journal = {京都産業大学日本文化研究所紀要, THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY}, month = {Mar}, note = {本稿は、畿内諸藩における禁門の変への対応について、淀藩稲葉家、西大路藩市橋家、膳所藩本多家の対応を素材として考察するものである。  淀藩を含めた畿内の譜代藩は、近世的軍役としての「火之番御用」を執行してきた。これに準じて幕末期においても畿内の譜代藩は動くことを余儀なくされた。異国船来航にともない、京都警衛の重要性が喚起され、淀藩は「京の七口」の伏見、竹田、両口の警備に当たることになる。元治元年(一八六四)六月以降、京の南方に長州藩毛利勢が屯集するにともない、淀藩は「火之番御用」を旨とする幕末の軍役を遂行してきたのである。さらに、近江国に拠点を有し、禁門の変に際して軍役対応が求められた西大路藩市橋家および膳所藩本多家の事例を紹介し、畿内諸藩が担う軍役との関係性について補完的に考察しえた。西大路藩では禁門の変の軍役対応を契機に、京屋敷への藩兵常駐が決定され、京の郊外、洛東、洛南地域の警備をおこなった。膳所藩本多家は、淀藩と同様に近世より「火之番御用」を担う大名家であった。膳所藩兵は、従来どおり京の不測事態に対する対応をおこなったが、事態が著しく悪化し、禁裏守衛はともかく本来なすべき消防活動は結果として完遂できなかったのである。}, pages = {1--40}, title = {禁門の変と畿内諸藩の軍役 : 淀藩・膳所藩・西大路藩を素材に}, volume = {24}, year = {2019} }