@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00010299, author = {近藤, 浩一 and KONDO, Koichi}, journal = {京都産業大学論集. 人文科学系列}, month = {Mar}, note = {本稿は,『日本書紀』にみられる新羅の真平王代後期に展開された対倭外交について,既往の研究と異なり新羅史の観点から検討した。これを通して,真平王代後期の対倭外交は,従来の指摘のように百済・高句麗との対立から倭の支援を引き出そうとした従属的な態度で始まったのではなく,対隋・唐外交の進展と国内の官制整備を達成した自信をバックに,積極的な外交政策のもと実行されたことを明らかにした。  真平王代(579~632)に展開された対倭外交の特徴をみれば,真平王は在位後半に至るまで倭に対しほとんど外交活動を実施しなかったが,真平王32年(610)を契機に態度を大きく変化させた。これ以後,真平王は立て続けに使者を派遣し倭と活発な外交活動を推進している。  こうした背景としては,即位直後から着手した真平王の国内外政策の成功が原動力となったと考えられる。真平王は,国内の官制整備が一段落する真平王16年(594)に,隋に使者を派遣して対中国外交を始動した。さらに唐が建国されると,領客典を設置するなどその動きを一層加速化させている。こうした関係をもとに高句麗・百済に対抗できるまでの外交能力を獲得したが,真平王はそれらをもとに一層王権強化を実現し,後期には対外意識が大きな高まりをみせたのである。  それゆえ,当該期の対倭外交は,積極的な外交政策のもと展開したとみられる。新羅側の新たな動向は,日本側の記録であるが『日本書紀』の内容にみられる通りであり,まず真平王代後期から倭に多くの仏教文物を送り始めている。特に真平王44年(622)は,新羅使節が仏像及び仏舎利・幡など多くの仏具を持参する様子が鮮明に確かめられる。さらにこのときは,百済や高句麗の僧侶たちが集まる飛鳥寺に代わり四天王寺が新たに登場し,新羅が送った仏舎利などの仏教文物はそこに施入されている。  この要因を考える上では,真平王代の新羅国内での仏教の役割が注目される。新羅では,前代の真興王以降国王を転輪聖王・釈迦仏に比定し貴族を弥勒菩薩とすることで,王権と貴族勢力が一定の秩序を形成していた。新羅仏教は王権を象徴する思想的基盤であったといえ,新羅が貢納した仏像・仏具も同じく新羅王権の象徴物であったことが窺い知られる。したがって真平王は,このような仏教文物を倭に送り新羅の王即仏思想を伝えることで,倭王を真平王の仏国土に引き込もうとしたと考えられる。  さらに同じ622年には,新羅使節が新羅経由で在唐倭人留学生を倭に送り届けている。この時から新羅と倭の間では,留学生を通じた外交関係が真平王に続く善徳王代まで継承されたのである。こうした留学生は,帰国直後に新たな外交政策を提言した恵日らの言動からわかるように,倭の外交活動に直接影響を及ぼす存在であった。真平王は,622年を契機に在唐倭人留学生とも関係を築きながら,倭に新羅の思想・制度などを伝播させようとし,それらを通じて倭国内でいわゆる「新羅化」を模索した可能性までが推察される。}, pages = {237--260}, title = {新羅・真平王代後期の対倭外交 : 真平王の対倭政策と関連して}, volume = {52}, year = {2019}, yomi = {コンドウ, コウイチ} }