@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00001217, author = {伊藤, 照夫 and ITO, Teruo}, journal = {京都産業大学論集. 人文科学系列}, month = {Mar}, note = {ナジアンゾスのグレゴリオスは,たんなる神学者ではなく,まさしく詩人でもあり,その文学的営為は彪大な詩的作品群に達している。かれの詩作活動は霊的行為であり,神への讃美であり,その作品は神へのささげものであったが,その一方でその作品群にはまぎれもなく自己を語る自伝的題材も見出される。そこではかれの発言と叙述はまちがいなく深刻に個人的である。そのような自伝的作品の中でもとくに長大な『自らの生涯についての(De vita sua)』は,かれが心ならずも帝都コンスタンティノポリスの司教職を辞してまもなく書かれた。このキリスト教作家では最初の自伝文学は,かれの一種の詩的履歴書を提供してくれるが,それ以上にかれ自身の生涯(人生)の意味について,はなはだ感受性豊かな省察を含んでいる。そしてそれらの省察が精神的にも心理的にも複雑な意味深長さを見え隠れさせているのである。そのことがはしなくも,アウグスティヌスとの比較へ導き,その結果を次のように認めざるを得ないのである。アウグスティヌスは体験をなしとげてしまった立場から,グレゴリオスはなお依然として体験しつづけている立場から,それぞれ自己を語っている。  『自らの生涯について』に関する拙論の今回の主要な目標は,この作品におけるふたりの人物グレゴリオスとカイサレイアのバシレイオスの人間性と,作品におけるその働きとを追求しながら,両者のアテーナイでの友情を分析すること,それによってアテーナイ時代から多年にわたって持続されるかれらの著名な交友のいわば「詩と真実」を探求すること。もうひとつは,アテーナイから故郷カッパドキアへと展開していくかれらの友情の軌跡を求めて,それぞれのアテーナイにおける体験の意味を解釈することである。  グレゴリオスの主張するところでは,かれらのアテーナィ体験はキリスト教の精神に基づくもので,そこから逸脱することはなかった。しかし,ヘレニズム時代以来の修辞学とギリシア哲学はキリスト教と異教文化の緊張の昂進する古代末期(4世紀)においても,教育と文化の中核をなしていた。グレゴリオスもバシレイオスも,伝統的な学芸都市アテーナイでの修学に没入していたのも当然のことであった。だが,キリスト教信仰に対立するものとしての異教文化への反省と反掻が徐々にパシレイオスにしのびより,やがて全面的ではないにしても,かれはそれまでグレゴリオスと分かちあっていた理想を放棄しようとする。それにたいして,グレゴリオスは,おそらくアテーナイの生活に深く根をおろしていたのであろう,ギリシア的パイデイアの魅力にとりつかれていた。ふたりの間の緊張がやがてかれらの友情と一致に食い違いを生む。まさにアテーナイ時代にこそ,友情と不一致(矛盾)が同時に始まったのであり,そこにかれらの友情の本質がひそみ,さらにはグレゴリオスにこの作品を書かせた原因のひとつが示唆されるのである。}, pages = {29--55}, title = {ナジアンゾスのグレゴリオスとDe vita sua : アテーナイにおけるバシレイオスとの友情(carm. II. 1.11, 211-264)}, volume = {31}, year = {2004} }