@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00001310, author = {吉田, 眸 and YOSHIDA, Hitomi}, journal = {京都産業大学論集. 人文科学系列}, month = {Mar}, note = {カフカの晩年の小品『夫婦』は,年金取得後の単調な療養生活のなかで書かれた。この作品は,鋭く奇異なカフカ文学にあって一見「凡庸」であるが,実はカフカ文学に新境地を切り開くような野心作でもあり得たのではないか。  『夫婦』の語り手「私」は「もう若くはない」。現在形で書かれたこの「もう若くはない」はこの作品執筆時の作者自身と直接結ぶ言説であり,この自覚が作風に明らかに或る重要な転回をもたらしている。  カフカの語りの形式の特徴を『夫婦』を例にとってバイスナーは論じた。曰く,語り手の「私」が「何ものをも予言せず」,「読者以上に事情に通じてはいない」,つまり「過去形で語っていても,語られたもののどこにも先行して存在しない」と。これをバイスナーは,「この物語は内側から語られている」と纏める。著名なこの議論の限界を新たに見極める必要がある。  語り手とは峻別される作者を考慮することが,この作品理解には欠かせない。「もう若くはない」作者が「内側から」の語りからはみ出してしまうのである。  死んだ筈のK老人が妻の助力により奇跡的に生き返るかのように見える『夫婦』のプロットは,カフカにあってあれほど顕在的なアポリアであり続けた結婚問題に対する態度表明でもあろうがそれだけではない。語り手「私」はこの小品の終わり方でK 老人の妻と自分の「母」を重ね合わせるので,その際急遽「母」のテーマも浮上する。「妻」というこの積年の関心事に初出のテーマ「母」(カフカにおいて抑圧され続けた「母」)が加わり,後者のほうが大問題となるらしい。それはなぜなのか。  多くの場合主人公の視座が衝撃的に転覆され脇へ押しのけられるカフカ文学のかたちを,この『夫婦』も踏襲してはいるのだが,主人公の視点と驚異の新事態が衝突してなおかつ共存していることには新しい面がある。これは,形式的な語り手レヴェルでは収まらない(作者レヴェルが顔を出している)絶妙のバランスであって,だからこそ,警戒してきた母の怪しき力を「奇跡」と称賛する余裕がいま存在するのである。「崇高」概念をここに導入することがカフカ理解の一助となろう。}, pages = {22--41}, title = {カフカにおける「崇高」 : 『夫婦』の「母」}, volume = {41}, year = {2010} }