@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00001425, author = {内田, 健一 and UCHIDA, Kenichi}, journal = {京都産業大学論集. 人文科学系列}, month = {Mar}, note = {ダンヌンツィオの言葉は,マンゾーニ派の目指した「日常的」なものと全く異なる,とりわけ「文学的」なものであった。にもかかわらず,彼の言葉は社会に大きな影響を与え,低劣な「ダンヌンツィオ主義」を生み出した。そこで本稿では,彼の言葉の実像を,彼自身の証言を通時的に検討することによって,彼の人生との関わりも含めて明らかにする。  1888年の記事〈ジャウフレ・リュデル〉で,カルドゥッチの散文における言葉の音楽性と語源の探求を賞讃するが,実はそれらはダンヌンツィオ自身の理想に他ならない(第1章)。1889年の小説『快楽』では,「詩こそ全て」と言葉の全能性を認め,トスカーナ語の伝統への愛着を表明する(第2章)。1894年の小説『死の勝利』の献辞で,ダンヌンツィオは自らを言葉の冒険者として描き,イタリアの威信を高める言葉の創出を目指す(第3章)。1895年の小説『岩窟の乙女たち』において,言葉と民族主義の深い結び付きを示す。ここで言葉は虚構の道具ではなく現実的な「武器」と見なされる(第4章)。1900年の講演〈ダンテの神殿〉でダンヌンツィオは,カルドゥッチに代わる「詩聖」として,言語の崇拝を司る(第5章)。同じ1900年の小説『火』で,作品という虚構の中ではあるが,理想的に芸術と人生が一致する。詩人の言葉は,英雄の身振りと同じように,「行為」と見なされる(第6章)。1903年の詩篇『マイア』では,「民族の神話的な力」として讃えられる言葉を用いて,詩人は新しい時代の訪れを告げる(第7章)。1906年の『散文選集』の出版の経緯から,ダンヌンツィオの言葉に対する誠実さが窺われる。その「前書き」には言葉の「師匠」としての自負が表れる(第8章)。1913年の伝記『コーラ・ディ・リエンツォの人生』の献辞では,クルスカ学会を揶揄しつつ,言葉の「精華」を追求する自らの姿を描く(第9章)。『鉄槌の火花』の一つ,1924年の随筆『ルクレツィア・ブーティの第二の愛人』では,寄宿学校の日々を回想する中で,トスカーナ語への執着とマンゾーニ派への反感を語る(第10章)。1935年の自叙伝『秘密の本』で,年老いたダンヌンツィオは言葉を「交流」ではなく「表現」の手段と考える。そして彼の言葉と人生は神秘的な合一に達する(第11章)。  ダンヌンツィオにとって,はじめカルドゥッチは言葉だけではなく新しい自由の指導者でもあったが,次第に束縛となる。1907年の師匠の死によって解放されたダンヌンツィオは,劇場と戦場で本当の自分らしい人生を追求する。そこで彼は自らの生命のリズムに言葉を合わせることによって,より広く深い自由の世界を表現することができた。}, pages = {233--254}, title = {ダンヌンツィオの言語崇拝 : マンゾーニおよびカルドゥッチとの関係を通して}, volume = {48}, year = {2015} }