@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00001441, author = {内田, 健一 and UCHIDA, Kenichi}, journal = {京都産業大学論集. 人文科学系列}, month = {Mar}, note = {フィレンツェを中心とするトスカーナ地方の文化と自然を讃える詩集『アルキュオネー』(1903 年末刊行)は,イタリアの文学と言語学において特別な位置を占める。この名作の成立に少なからぬ影響を及ぼしたのがダンテである。1888 年にフィレンツェでイタリア・ダンテ協会が設立され,詩聖に対する社会的な関心が高まっていた。また,1898 年3 月にダンヌンツィオは,ダンテが生まれ育ったフィレンツェに移り住んだ。初期作品においてダンヌンツィオは,主にダンテの『新生』(1292–93 年)から引用を行い,愛する女性の姿を描いた。『新生』への強い関心はラファエル前派の影響によるもので,『神曲』を題材とする場合でも,神学的な部分よりも清新体的な部分を好んだ。『岩窟の乙女たち』(1895 年)ではダンテの『帝政論』(1312–13 年)に幾らか言及しており,その後の彼の政治活動と独自のダンテ神話の創出を予感させる。フィレンツェに居を定めたダンヌンツィオは,公開ダンテ講義,選挙戦,そして演劇活動という,民衆との直接的な交流を積極的に行う。それらの機会に,知識人と民衆を繋ぐ仲立ちとされたのが,リソルジメント期から国家と言語の父として祀られてきたダンテである。ロマン主義的英雄としてのダンテの神話を創出するにあたり,ダンヌンツィオは『新生』よりも『神曲』の方に重きを置いた。政治的な理由でダンテを利用することは軽薄にも映るが,大作『フランチェスカ・ダ・リーミニ』(1901 年)の上演によってダンテを新しい時代に蘇らせることは彼にしかできなかったであろう。『アルキュオネー』の最初の作品『フィエーゾレの夕暮れ』(1899 年6 月)には,『新生』の「賞讃」のスタイルが用いられ,それは約3 年後の『至福』(1902 年7 月)でも再び用いられる。『アルキュオネー』の中にはダンテの精神が通奏低音のように遍在しており,『神曲』のフレーズや脚韻が目立たないながらも繰り返される(例えば,‘ notturno gelo’,‘ si tace’,‘ crudo sasso’)。1902 年の夏,ダンヌンツィオはダンテの旧跡が残るトスカーナ地方のロメーナに滞在して,ダンテと深く交感しながら『アルキュオネー』のために優れた詩を数多く書いた。それらの神秘的な魅力は,彼独自のダンテ神話,ダンテが描いたトスカーナ地方の自然,そしてダンヌンツィオが巧みに詩行の中に織り込んだダンテの言葉に由来したのである。}, pages = {217--239}, title = {ダンヌンツィオ『アルキュオネー』前史としてのダンテ神話}, volume = {49}, year = {2016} }