@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00001662, author = {笠井, 惠二 and KASAI, Keiji}, journal = {京都産業大学教職研究紀要}, month = {Mar}, note = {本稿は、ヤスパースが教育の問題について、いかなる考えをもっていたのかを考察しようとするものである。  ヤスパースには全く特別な宗派的な信仰というものがなかったし、そのようなものを克服する必要も感じなかった。しかし彼の両親は自然の美しさや滋味あふれる精神的な作品に触れさせつつ、子供たちを厳しく教育した。彼はギムナジウムのときに、病気によって普通の人がなしうる活気溢れる生活の大部分を奪われてしまったが、愛と信頼に貫かれた家庭で成長し、両親が示してくれた確固とした人生肯定によって、豊かな精神を育むことができた。  ヤスパースによれば、人聞は他人と共にあることによって、初めて自己というものに到達しうるのであって、決して独力でそうなるのではない。教えるということは、学ぶ者に綿密な態度を養わせ、思考を訓練し、方法を教え、理解の仕方を伝えることにより、光を求める止み難い熱情を鼓舞させることである。生徒は熟練を身につけ、知識を習得しなければならない。生徒にとって大切なのは、高い直観や形態をもった青少年らしい精神の充実である。教育においては、知るに値しないものが満ちている。教育においては、科学的思惟の仕方そのものが強制的なもろもろの根拠をもって知る能力の意識的経験となるのである。科学的教授の計画は、科学そのものにより、専門諸科学の専門的知識によって、決定的に規定されることのできるものではない。それは全く他の専門的知識の、すなわち本質的なことに関する知の法廷のもとに根源的に立っている。生徒たちは、その素質と能力に応じて教育されるべきなのである。 教育については、到るところで熟慮し計画することができるのであるが、それ以上に大切なことは、このような計画の限界を洞察することであり、また、良心的にその限界を守ることである。学校という共同体によって、強力に高められた教師の人格性における指導的法廷から、すべての衝動、力、悦びというものが生ずるのである。  ヤスパースによれば大学の課題は、研究者と生徒という共同体のなかで、真理を探究するということにある。大学は、教会の理念と同様に、不滅な、超国家的・世界的な性格をもった理念から自己の生命を得るのであり、国家はこれに自由を認めるのである。大学は、制限を加えようとする外部ないし内部からの要求や命令に拘束されることなく、真理を教授するものでなければならない。  大学は一種の学校であるが、しかし独自の学校であり、大学では、生徒は授業をうけるだけでなく研究にも参加する。こうして生徒は、自分の生活を規定する学問的教養に到達しなければならない。本来、生徒は独立かつ自己責任的な、そして教師に批判的についてゆく思考者であるべきである。そして生徒は学習することの自由をもっているのである。  大学とは、そこで国家と社会が時代の最も明瞭な自覚を展開する場所である。そこでは、真理を得ることのみを目的とする人々が、教師と生徒として出会う。無条件の真理探究がどこかで行われるということは、人聞の本来の要求なのである。  国家と社会における勢力は、大学のために心を配る。なぜなら大学において、学問的能力と精神的教養を必要とする国家的職業を遂行するための基礎が習得されるからである。そして大学を修了した人々の精神的な教養によってこそ、真理の探究が、それらの職業の遂行に望ましい結果をもたらす。もしそのことが疑われたとしても、人間の基本的な意志は、どのような代価をはらっても徹底的な真理探究を敢行しようとするのである。  教育は、民族の歴史的生活の形態と共に変化する。教育の単位は、教会・身分・国民等の社会の単位によって与えられる。教育は、それらの特別の社会的な形態が、世代を通じて自己を維持してゆく方法である。だから、社会的変革と共に教育も変化し、革新の試みは最初に教育問題に向かう。このため、教育の意味と手段についての考察は、自然に国家や社会に及んでいくのである。, 1、哲学的自伝より 2、教育的計画の限界 3、大学の理念}, pages = {41--53}, title = {カール・ヤスパースにおける教育の問題}, volume = {2}, year = {2007} }