@article{oai:ksu.repo.nii.ac.jp:00002478, author = {関, 光世}, journal = {京都産業大学論集. 人文科学系列}, month = {Mar}, note = {本論は,英国ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)のジョンストンコレクションに残された『猛虎集』を手がかりに,徐志摩(1897-1931)と清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(1906-1967)の帝師を務めたレジナルド・フレミング・ジョンストン(1874-1938)との交流について,可能な限り明らかにしたものである。  この『猛虎集』初版本には,徐志摩のサインが残されているとの記録がある。しかし,筆者の現地調査によって未公表の献辞が確認できており,その文言は,二人の交流が従来知られているよりも長く,深いものであることを示唆している。徐志摩とハーディ(1840-1928)やフライ(1866-1934)らとの交流はよく知られているが,留学から帰国した後の西洋人との交流については,ほとんど取り上げられていない。  本論は,献辞の文言や日付などの情報を手がかりに,コレクションに残された他の中国知識人の書籍,ジョンストンの著書『紫禁城の黄昏』, 溥儀の自伝『わが半生』,徐志摩の日記や書簡など関係資料を参照し,二人の交流の起点と終点及びその過程について仮説による叙述を試み,以下の点を明らかにした。  1. 徐志摩とジョンストンの出会いは,1924年のタゴール(1861-1941)訪中時よりも早い1922年冬,つまり徐志摩の帰国直後であった可能性が高く,タゴール訪中は二人の交流が一層深まる契機となったに過ぎない。  2.二人の出会いと交流において,胡適は仲介者として重要な役割を果たした。  3.『 賀雙卿雪壓軒集』上のサインは,二人の交流が長期間継続しただけでなく,彼らの交友関係が,中国文学界においては相当程度共通していたことを物語っている。  4. 献辞の文言や当時の社会情勢から,『猛虎集』初版本は,出版から徐志摩が事故死するまでの短い期間に直接手渡されたと判断し,その時期と場所を概ね特定した。  以上を総合すると,徐志摩とジョンストンの交流は,徐志摩が留学から帰国した直後に始まり,タゴールの皇帝謁見を機に深まり,1931年,互いに極めて多忙な中で最後の対面を果たすまで続いたと結論づけることができる。  本論は,ジョンストンコレクションに見られるジョンストンと徐志摩及び胡適ら中国の知識人との交流の詳細を初めて解明し,従来ほとんど取り上げられたことのなかった徐志摩とジョンストンの交流の起点と終点,及びその過程を明らかにしており,徐志摩の西洋理解,ひいては1920年代における中国と西洋の文化交流について,その一端を理解する上で価値あるものである。}, pages = {131--143}, title = {徐志摩と帝師ジョンストン : ジョンストンコレクションに見られる『猛虎集』を端緒として}, volume = {50}, year = {2017} }